中丸美繪さんの『鍵盤の天皇 井口基成とその血族』を読了しました。井口基成氏についての評伝で、著者が20年以上調査を重ねて書いた大著です。インタビューを受けた方のなかには、神谷郁代先生も含めすでに亡くなられた方も多いので、これは相当に時間をかけられたのだなと思いましたが、内容がかなりプライベートにも踏み込んでいるので(女性関係や、子どもたちのことなど…)、その反響も考慮されていたのでしょう。
この本は、タイトルこそ「鍵盤の天皇」ですが、昭和のピアノ界の頂点であった井口基成氏の、もっと人間的な側面を詳らかにしています。それは矛盾だらけで…例えば、基成が師事したイーヴ・ナットはとても穏やかな性格で、レッスンはいつもあたたかく、説教や暴力はない。しかし基成のレッスンは、わたしでも聞き知っているくらい暴力的で怖ろしいレッスンだったという(その是非はともかく)。芸術至上主義のように見えて、政治家の顔も見え隠れする。男らしいように見えて、優柔不断にもなる。偉そうに見えて、学ぶことに貪欲である。そのような矛盾した点もまた、基成氏の魅力となり、人を惹きつけたのだろうと思う。
わたし自身は「音教」(子どものための音楽教室)出身であり、桐朋出身の先生に初歩を習ったこともあり、当然“出自”について思いを巡らせるわけです。思いのほか、井口系列とは近い気がしてきました。子ども心に、何か“桐朋イズム”みたいなものは感じていましたけど…。確かに日本で音楽教育を受けていれば、たいていこの「井口系列」に辿り着く。しかしこの本を読むと、井口愛子、基成、秋子それぞれ歩んできた道は違うので、一口に井口系列と言っても三者三様の特色があることがわかります。神谷郁代先生は井口愛子さんの愛弟子で、先生の口からしばしばそのお名前を聞きました。神谷先生はとくに音にこだわる方で、その弾き方は愛子さんからの直伝のようでした(そのことはこの本にも触れられています)。わたしも神谷先生から音の出し方を教わり、自分の中では大きな成長を感じた部分です。やっぱりわたしにも井口イズムが流れている……。
久しぶりに、当事者として読むことになった本でした。