J. マウチェリの『指揮者は何を考えているか』を読了しました。古今東西の指揮者たちの様々なエピソードが満載で、例えばカラヤンと、マウチェリの師バーンスタインの気まずい昼食会など、それぞれの人柄がわかり興味深い内容でした。プッチーニとトスカニーニの信頼関係をみれば、トスカニーニがなぜ、《トゥーランドット》のリューの死の場面をもって指揮棒を置いたのか、納得がいきました。その《トゥーランドット》で、トゥーランドットが、最初に歌い出す場面(ロ・ウ・リン姫について語り出すところ)が、指揮者にとっていかに緊張を強いられるのか、よくわかりました。
印象的だったのは、テンポについて書かれた章です。マウチェリはあるとき、ガーシュウィンの《ポーギーとベス》の指揮を依頼され、この後世に様々に手が加えられた作品について、作曲者自身がどのように書いたのかを精査しました。序曲について、ガーシュウィンは四分音符=112と明記しているそうです。しかし、ラトルをはじめ皆が140くらいで演奏しています。マウチェリは「ガーシュウィンのテンポ」で指揮しますが、やはり「聴き馴染みがない」という意見(演奏の伝統)とぶつかってしまうのです。
言うまでもなく、テンポは演奏の印象を決定づける重要な要素です。テンポが変わると、聴く内容が変わります。昔、中学生くらいのとき、グールドの弾くスクリャービンのソナタ第3番が好きで、繰り返し繰り返し聴いていました。この曲の生き生きとしたフレージングが、グールドの呼吸とあいまって手に取るようにわかりました。数年後あるCDをかけていて、同じソナタが流れましたが、途中に至るまで同じ曲だと気が付かなかったのです。演奏はアシュケナージ。名盤とされているもので、テンポはグールドの倍ほどあるかもしれません。グールド以外の演奏を知らなかったので、きっと再生機が壊れて早回しになっているに違いないと思ったものです。ちなみに、この曲のテンポの「標準」はアシュケナージのものでした。しかし、今でもこの曲を弾いたり聴いたりするとき、アシュケナージのテンポは速すぎると感じてしまいます。それは「異端」なのでしょうか?
最近、YouTube用にドゥシークのソナタop. 35-3を録音しました。この曲の最終楽章はmolto allegroです。どのようなテンポをとるか、迷いました。この音源の少ないソナタにもやはり名盤がありまして、それは名手A. シュタイアーのものです。わたしも大好きな演奏家です。彼のテンポは想像した通りキレッキレの猛スピードでした。しかしわたしは、左手のユニークな伴奏音型から、これはトルコ行進曲であると考えていて、ある程度余裕を持ったテンポでないとそれを表現できないと思いました。おそらくシュタイアーは、曲の冒頭c mollから最終楽章C durになった歓喜(まさしくベートーヴェンの第5と同じです)を表現したのだと思います。わたしのテンポでは、その爆発感は薄れるかもしれませんが、それでもひとつの解釈が成り立つでしょう。ピアニストなら、シュタイアーのように疾走感のあるテンポで弾きたいという誘惑から免れるのは難しいかもしれませんが。
とくにコンクールでよく弾かれる曲や、練習曲はその性質上、どんどんテンポが速くなっているように感じます。一時期は古典派の曲は何でもかんでも速いときもありました。でも何を聴くべきか、演奏家も聴き手も研ぎ澄ました耳で受け取るべきなのかもしれません。
テンポについて考えるとき、思い出す出来事があります。学生時代にわたしの師J. トゥーマ先生がマスタークラスで通奏低音をお弾きになったことがありました。何の曲か忘れましたが、ひと通り弾き終わったあと、弦楽器の方たちに言いました。「素晴らしい!こんなに上手な人がいるなんてびっくりしたよ。でもね、テンポが速すぎる。このテンポで、私がどんな和音を弾いているか、認識できている人はいるかい?」
さて前述のドゥシークのソナタですが、わたしが自分のテンポを決めたあと、トゥーマ先生の録音を聴きました。やはり、わたしと同じ抑制されたテンポでした。何だか嬉しくなった瞬間でした。